昭和40年04月17日  朝の御理解



  神様が私共に下さろうとしておるおかげ、その神様が私共に下さろうとしておる。そのおかげを頂きとめた時、神様が喜んで下さるのであり、私共も神様の御働きの間違いなさに、いよいよ今日感激さして頂く。おかげがうけられるのであり、それを取り次ぎ、その働きにして下さった、金光大神様の喜びでもあると言う事。神様が下さろうとしておるおかげ、そういうおかげを私は、神定めのおかげと申しました。神定めのものいわゆる神ながらなおかげ。
 そんなものだと私共それで結局その人の信心の太さ、その人の信心のいうならば実力とによって、神定めのおかげというのは、神定められているのであって誰もかも同じ事ではないと思うんです。同じ腹いっぱい頂くというても、やはり千円の定食もあれば五百円の定食もある、百円のやはりどんぶりものでも腹いっぱいは、腹いっぱいという様にその信心のケ-スとでもいうかねえ。おかげの受け物の程度程度に応じて下さる。神定めのおかげという神定められておるものとは違う。
 異常ではない。ですから私共の例えば程度の信心で神様にお願いをする時にです。神様は、そういうおかげを下さろうとする働きが、早速お互いのうえに始められるのです。昨日最後の敷地の交渉が昨晩遅くまで、総代さん方ごく少数の方達で話がすすめられました。おかげを頂いていわゆる神定めのままにあると、私はおかげを頂いたとこう思うのです。でも一つ椛目のお広前の敷地は、少なくとも五反はなからなければいけん。三、五、千五百坪です。
 おかげを頂いてあそこ、そこのところの1かく、丁度五反半あるそうです。五反半の土地が昨日全部決まってしもうた。どんなに考えましても今の椛目のこれは、私共の考えそれこそいうならば今の椛目には、二反の田でも広すぎる様な感じがする。親先生が決めて下さった土地が二反だった。ところがそれが相談できなかった。いわばおかげ頂けなかった様に思うんです。ところが次にいろいろ過程がございましたけれどもできた所が三反だった。実際は2反【 】です。実際は三反以上あった。
 ははぁここにいよいよ定まったのかなとこう思うたら、次にはまた次のその5反の話がでた。条件は好条件を元にそれをまあ沢山の人の沢山というか四、五人位おられましたでしょうか。地主さん達が。ですからその解決をみるまでに昨晩までかかった訳なんです。五反もどうしていいのかと私共思うごとあるけれども定まったと言う事は、やはり神定めの地だとまず私共は、まず思わなければならん。そこで今度は神様はその五反の敷地にふさわしい。【 】を願うておるに違いないと言う事そうでしょうが。
 だからそれを頂かして頂く為のこれからの信心。もう沢山敷地の中に小さいお広間ができた。それでやはりおかげは、おかげでありましても神ながらなおかげとはいえん。ですからもう今度で6回7回でしょうねえ。あの図面が出来直したのが最後的なと、その思われておった。もう見事な図面がいわばあそこに掲示されておるのでございます。もうどっからみてもいわゆるあれで、丁度5回目か6回目、5回目だったでしょう。もうみんなの検討に検討を加えさせて頂いていいなっていう、その設計図が出来たです。
 ところがそれは三反という所にそこに、はめた所のいわばお広間であった。そこで今度広うなったでまた場所が変わったで、地形が変わったら変わったで、そこの地形に合う様な広さに、向く様なお広前が建立されなければならんので【 】第一回の設計が昨日できたところが、今までのがあんまり良かったもんだからどうしてもみんながこれじゃいかんと、もうその設計士の【 】自身が、そのちっとは、疲れておられる様な感じである。そのお届けを秋永先生がだして頂くときに今のご理解を頂きました。
 神さだめという神さだめのおかげという。もうその昨日つくりなさったのが、神ながらだと神ながらというのは、間違いだと神様が下さろうとしておるおかげは、神様のおかげがここにあるのならば、ここに信者が、これを共励し、これはまだ信心が信心がたりんからだと、ためには、どういう信心をさせて頂こうかというに、様々に工夫させて頂いてこの神様の椛目のここに到着することだ。だから何回も書き直されまたは、図面がひきなおされるかわからん。
 いわゆる神様のところへ、小さい小部屋ひとつでも神ながらな神定めのまにまにこれに近づいていくという事が、信心だという事になり、ここに神さだめのいわばおかげ例えば私が、百円しかない。人間なら百円をです。食べ物をこれに下さるんだと言う事。千円がたなら千円の定食であるところの、いわば御ご馳走のついた食べ物をやっぱり腹いっぱいでも千円がたなら五百円じゃ勿体ないでしょう。五千円のおかげを下さったのに三反がたの今のが素晴らしかったというてそれでは、勿体ないでしょう。どうですか。
 そこに私は、神様の私共に求めなさる。信心の要求があると思うです。いわゆる「這えば立て立てば歩めの親心」さあここまで歩いてこい。這いながら歩きながらあらわせ本当の信心を、わからせようとなさる働きをその事の中からでも感じる事ができるでしょうが。【 】本当に今から考えてみてです。昨日の話ですもんねえ。いわばこのこの県道から上6、7分歩くと私そこは、見に行く気がしませんでしたねえ。【 】どうした事じゃろうかと私は思うたです。
 けれどもそこは、神定めの土地では、なかったから私は見にもやらしてもられなかったじゃろうと私はこう思います。そしたら今度は【 】がでておる時にはです。もうほんのわざわざじゃありませんでしたけれども高橋さんが、私を車に乗せて下さってまあちょっと見てきましょうかっていう事で見に行ったら、いいんですねえ。これが参道になる、ここにお広間が建つ。こりゃあええなっと、こりゃ高橋さん私がその送った時です。【 】ていうた事でした。
 だから今度はいよいよ建立、お広間建立と言う事でねえ、その前でしょうけれども神定めのままにです。これから神様の御働きをまた頂かなくてはならん。お互いの信心がすすめられなければならんと言う事。例えばという事は、椛目におかげを頂いておる皆さんは、私は言おうとしている事は、具体的な例ならいくらもあるんです。一番最近の例なんかは、この駐車場でしたねえ。駐車場の今この電柱のたっておる。
 手前までできてました。ところがその地主さんの方がせっかく買って下さるなら向こうまで買ってもらわにゃ困るといわれる。先生方もご信者さんもあそこまで買ったちゃどうするという事だったんです。けども向こうの方から買えるだけは、あんた骨がおれるのに向こうからとにかく駐車場をあっち向こうずうっとしなさいとこういわれる。はあ、必要でもないところをどうしますか。先生なんか今度の御大祭にゃきっちりぐらいしかはいらんそうです。
 きっちり20人ぐらいはいって、いかに神定めであったかわかるでしょう。地主さんを通してからどうでもこうでも買ってもらわにゃ困るとこういわれる。今度の場合もそげんでした。もういろいろぐずぐず言うごたるあるならこれもいらんあれもいらんここだけでいいということじゃったけど、どうでもそこが、はじまってだから今の判断では、駐車場のできるその時と同じ様にという気持ちなんです。私共でもそげん思うですよ。神定めの土地であるとするならばです。
 なるほどさっぱりこれが、いっぱいになったという様なです。おかげになっていくと確信する。勿論そこには、神様の信心の要求にこちらが応えていける。信心がなされなければならん事は、勿論です。もう私は、数を数えておりませんでしたけれどもそういうておりました。25人それは、きっちりでしたという様にです。おかげを頂く個人のめいめいの差の信心においても同じ事がいえます。誰彼を願っておる。
 それこそ初めから雲をつかむ様なおかげだけを願っておるところで、神様がそれを下さる事は、ないけれどもどうでもそうしなければならないところに追い込まれたという時には、もうすでにいわばこうでなければ困るという働きがある時には、いわばそこが神定めなのだとですから、こちら神様のどれだけ一歩でも二歩でも近づけさせて頂くかによっていわばおかげも変わってくる。
 いわゆる神定めのまにまにです。いわば神さだめのまにまに神様が下さろうとしている。最高のおかげを頂いていこうというところに私は、信心を進めていく楽しみというか有難さというものが、あるとこう思うのです。いや私はもうこれでよかった、もうこのくらいでよかっというのでは、なくてです。私共はそう思ってもです。神様がどうでもこれだけのおかげを下さろうとする。
 働きにいわゆる応えて信じよう。勧めて行かなくてはいけない。もう皆さんの信心は三反がたの信心じゃないもう五反がたの信心として神様が認めて下さったんです。椛目の信者達の上に。ですからここの所の信心をさせて頂こうという所にお広前建立が出来ると私は確信するのです。そこにいかにして今までの信心じゃいかんともう一段信心をすすめさせて頂いてです。椛目に相応しいだけの信心を神様が下さろうとしている。
 そのおかげを頂く時初めて神様は満足の喜びを示して下さるだろう。私共も神様の働きにゃあ間違いないと本当にあの時ああ向こうも思うけれども神様の働きは、間違いないなあと有難いそれを取り次ぎの働きをもっておかげを下さる金光様も勿論喜んで下さらんはずがないのです。そういうおかげをです。お広間の上にもお互いのめいめいの上にも頂き現わして頂かなければいけないと思うんです。おかげ頂きました。